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高知城を築城した山内一豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老であった父・盛豊討ち死に後、流浪の末に秀吉の元で武功を重ね、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川方に味方した功績で土佐一国を与えられた。
翌1601年(慶長6年)に土佐郡大高坂山を新城の地と定めた。
元々、秀吉の配下で検地や築城、城下町経営に手腕を発揮した一豊は、着々と本丸、二ノ丸の石垣工事を完成させ、次いで本丸・詰門・廊下門・太鼓櫓を竣工し、首尾よく外観4重、内部3層6階建の高知城初代藩主となった。
1611年(慶長16年)には三ノ丸が完成。ほぼ全城郭が形成されたのである。
その後1727年(享保12年)に城下町の大火により天守をはじめとしてほとんどを焼失。1749年(寛延2年)には再建されていた城の天守が完成した。この天守が現在のものとなる。
現存の天守は、入母屋造の下層部の上に物見櫓(望楼)が乗っている望楼型天守の典型というもので、破風(はふ)があり、入母屋破風のうえに唐破風が見られる。
初代藩主一豊が先の居城であった遠州掛川城を模して造ったといわれる天守最上階の廻縁高欄は、当時の四国にあっては珍しいものであったという。
天守を飾る鯱(しゃち)とは、『頭は龍のようで背中に鋭いトゲをもつ想像上の魚』で防災の効があるとされている。高知城天守の上重、下重の計4個の鯱は青銅製である。
1874年(明治7年)には高知公園として一般に公開され、1934年(昭和9年)には国宝に指定。1950年(昭和25年)に国の重要文化財に指定された。
『昭和の解体修理工事の際の調査から、創建当時の姿がそのまま踏襲されている 』として、古い様式を今に伝える貴重な建造物とされている。
稲葉 秀一
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