元徳2年(1330年)甲斐国の領主であった二階堂貞藤(道蘊/どうたん)が七朝帝師と尊称された夢窓国師をお招きし、自邸を禅院としたのが始まり。
戦国時代には武田信玄の疎崇を受けた快川和尚の入山により寺勢を高め、永禄7年(1564年)信玄が寺領寄進し、菩提寺と定めた。
まず総門(黒門)を入り参道をあがると、四脚門(赤門)が現れる。信長により全山が焼かれ焼失した後、1606年、徳川家康により再建された棟札が掲げられ国の重要文化財となっている。
三門に掲げられた快川国師の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」あんぜんかならずしもさんすいをもちいずしんとうめっきゃすればひもおのずからすずし)は、武田家滅亡後の天正10年(1582年)、織田信長が恵林寺に潜伏保護されていたもの達の引き渡しを命じそれを拒否された際、快川和尚はじめ数百人の僧侶を閉じ込め火を放った際の句といわれている。
三門をくぐると見えてくるのが開山堂。堂内には夢窓国師、 快川和尚、末宗和尚の三像が安置されている。
庫裡から本堂には入り、本堂と明王殿を結ぶ廊下が名高いうぐいす廊下となっており、歩くと「キュッ、キュッ」と鳴る。これは侵入者を察知するための仕掛け廊下で、床面に釘のアタマを見せないための床板内部の目かすがいを少々上方に反らせて留め、重荷がかかると針と針穴が擦れあい、音がでる仕掛け。手仕事時代の大工のすばらしい知恵である。
明王殿に祀られる武田不動尊像は、武田信玄30歳前半頃に造られたといわれ、京の仏師・康清(こうせい)を招き、自らの姿を模刻させたと伝わっているという。薄明かりに浮かび上がるお顔は殺気漲り、戦国時代を生き抜いた武田信玄の気迫のようなものがありありと伝わってくる。
境内の信玄公宝物館では恵林禅寺が所蔵する資料が保存・公開されている。戦国時代に想いをはせながら、歴史のおさらいをするのもよいだろう。信玄公宝物館の建設には、東京タワーを設計した建築構造学者の内藤多仲(1886〜1970)が携わった。
本堂左手には樹齢400年の侘助椿と、加藤清正が朝鮮より持ち帰ったという巨石を繰り抜いて作られた“掘り抜き井戸”がある。 背後に広がる夢窓疎石の作庭と伝えられる庭園は、国の名勝として指定され、四季折々の姿をみせてくれる。
稲葉 秀一
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