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739年唐の時代に、孔子が玄宗皇帝より「文宣王」という敬称を贈られたことから、孔子廟を文廟と呼ぶ。
八角形の湖に添って緑溢れる遊歩道がつづく文湖を左手に見ながら、文廟門と対峙した。
文廟は1070年、李朝第3代皇帝リー・タイントン(李聖宗)により建立。文湖を南に配し、レンガ塀で囲まれた文廟は、幅約60m、奥行約300m、後方はやや広がって約75m幅の四方形で、孔子の故郷のある中国・山東省曲阜の「孔子廟」を模し、自然界における5つの要素は木、火、土、金、水との思想を表したといわれる5区分に分かれており、それぞれ門をくぐって入る。
入口には、長柱と短柱が一対ずつみられ、長柱には善悪を判断するという想像上の獣(リー)が向かいあっている。短柱には鳳凰が数羽座しており、神聖なる廟への入口の守り神としての役割を果たしている。左右に配されたのは、何人も孔子廟に敬意を表し、馬をふくめすべての乗り物から降りなければならないという「下馬」の碑がある。
第一区「文廟門」
ベトナムの仏教寺院にみられるふたつ屋根の三関門 。かつて木造だったのを石造りに建て替えられたという。門の右側に吉運とされる昇り龍のレリーフ、左側には力と権力を示す虎のレリーフが見られる。門を入り内側より上部を仰ぎ見ると、孔子を中心に4人の弟子達の姿が彫られている。その彫刻たちの目線の先には「皇帝の道」と呼ばれる煉瓦道がまっすぐに伸び、その奥の「大中門」へと誘っている。
第ニ区「大中門」
赤塗りの柱が目に鮮やか。屋根の上には一対の鯉が跳ねている彫刻が見られるのは『後漢書』に登場する「登竜門」の由来とされるかつて黄河にあったという3段の瀑布を登った鯉が龍になった逸話を表したのだとか。
第三区「奎文閣」
1805年グエン朝時代に建立。「奎星(せいせい)」は文学を司る星という。2階の四方に奎星を象徴したといわれる丸窓が印象的。隣接するティエンクアン(天光)池に反射する光が碑文を照らす仕掛け。ハノイのシンボルともいわれている。池の両側に82の石碑『進士題名碑』が並び、その厳しさで名高い官吏登用試験である科挙に合格した人の名前が刻まれている。
第四区「文廟」
孔子の霊を祀る建物。ハノイの文廟は1070年、李朝第3代皇帝リー・タイントンが建立したと言われる。
朱色の眩しい大成門を通ると、大拝の庭といわれる広い庭がある。拝堂には立派な祭壇があり、大聖殿へと渡る道には硯の形をした柱などがみられる。高い敷居をまたいで大聖殿の中に入ると、中央には孔子像が鎮座し、その周りを四配といわれる孟子、曾子、顔子、子思の高弟の像が取り囲んでいる。孔子像の両脇奥に石碑が5基ずつ、計10の十哲の石碑があり、孔子の弟子のなかでも特に優れた10人の賢者を指す。
第五区「国子監」
門衛の像に囲まれた啓聖門 をくぐると、ベトナム最古の大学として歴史に刻まれている国子監がある。
1076年、李朝第4代皇帝リー・ニャントン(李仁宗)によって建立された国子監であるが、1946年の抗仏戦争で破壊され、2000年の「タンロン建都990年」の記念事業として再建された建物。前堂と2階建ての後堂との構成になっている。
文廟門より第五区の「国子監」まで、多くの門をくぐる構造であった。
「東西南北すべてはこの道に通じる」「教義はこの道のようである。人はこの扉を開けなければ中に入ること適わず」。文廟門の両の柱に書かれた孔子の言葉が谺する。わけても学問を志す受験生ならば、門をくぐるごとに孔子の思想に一歩近づくことができそうな…。そんな想いがするのではなかろうか。
稲葉 秀一 |
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