伊達政宗が仙台を開府するにあたり県北の岩出山城から移した神社、大崎八幡宮。
社殿は慶長9年(1604)に事始を行い、慶長12年(1607)に遷宮している。「本殿」と「拝殿」との間に「石の間」を設け、これらを一体とした「権現造」の形式が採られている。のちに徳川家康(東照大権現)を祀る日光東照宮にもこの形式が用いられているが、現存する権現造の遺構としては京都の北野天満宮社殿とともに最古のものとなる。彫刻、彩色および錺金具で彩られた社殿は、桃山時代の装飾的な様式を代表する建築のひとつとして国宝建造物に指定されている。
拝殿と本殿の屋根は入母屋造、石の間は切妻造。いずれもこけら葺き。拝殿正面には大きな千鳥破風を持ち、その下の向拝には小さな軒唐破風が付けられている。
柱と柱を繋ぐ長押(なげし)より上部分にある頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)、蟇股(かえるまた)、肘木(ひじき)、斗(と)などは、鮮やかな顔料によって彩色されている。長押より下は黒漆が塗られ、建物全体には彫金具がふんだんに散りばめられている。そのコントラストに桃山建築の粋を凝らした美が凝縮されている。
一方、
社殿前に広がる長床は、拝殿の役割を担う建物で、大崎八幡宮の長床は中央部分を通り抜けることができる割拝殿の形式。長床は簡素な素木造りであるのが印象的であった。
平成12年より貴重な壁画や彩色を痛めないように、柱や板壁を残したまま補修を行う「半解体修理」が行われた。
解体中には、慶長10年から12年までの年号、大工ら職人の名前や出身地を記した墨書が多数見つかり、棟札や仙台藩の記録を裏付けることができたという。地名には「下京」「紀州那賀郡」「紀州海士郡」「近江国栗太郡」などが見られ、豊臣家に仕えていた京都や和歌山出身の工匠、絵師、錺師など、当代随一の匠らが上方より招集されたことが裏付けられた。
長い戦国時代より急激に天下統一がなされ、茶の湯の大成、能、浄瑠璃の隆盛、南蛮文化などが絶妙に影響しあい自由闊達な文化が華ひらいた安土桃山時代。稀有な時代が生んだ宝石といえる建造物を心ゆくまで楽しんだ。
稲葉 秀一 |