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旧暦の十月は「神無月」というが出雲の国では「神在月」である。八百万の神々が年に一度、出雲大社に集まり“神謀り(かみはかり)”という会議をするためにお集まりになる。神々の会議を覗かせていただくにはちと早いが、松江の町に佇む「明々庵(めいめいあん)」と呼ばれる古庵を訪れた。
建てたのは松平治郷(まつだいらはるさと/宝暦一年(1751)〜文政一年(1818)。江戸に生まれ、16歳で出雲国に出向く。17歳で雲州松平家第7代の藩主となる。当時、藩財政は窮乏を極めていたが、借財の帳消しや倹約令、役人の特権廃止、治水工事、年貢の徴収を極端に増やすなどいささか強引な藩政改革に乗り出した。その結果、藩政を蘇らせたものの、他方では号を不昧(ふまい)と称し、茶道を究め、茶器の蒐集、茶道具の研究を続け全国から高価な茶器を買い集めるなどしたという。藩政は一気に悪化に逆戻り。家老らが諌めると『贅言(むだごと)』という書物を著し「治国に通じることだ」と開き直ったというなんとも人間らしいエピソードが残る。
やがて陶斎尚古老人の名で名物茶道具の図説書「古今名物類聚」を著し不昧流茶道の祖となった。茶道の他、禅学、儒学などにも優れ、和歌・俳句・画賛等にも優れた作品を残しており、地元の漆工や陶器などの工芸を振興した。
不昧公、不昧さん、と親しみを込めて呼ばれるお殿様、松平不昧が安永8年(1779)。29歳の頃、松江城にほど近い家老の有澤家のために建てたのが「明々庵」。現在の場所に落ち着くまでに、東京の松平伯邸、出雲の菅田庵(かんでんあん)に隣接した萩の台と流転を重ねたが、昭和41年秋、不昧公百150年祭を機に塩見繩手の赤山の内台地へ移築、再建された。
入口付近は黒松に囲まれた松江城天守閣を望む城見台となっている。不昧公好みの茅葺き入母屋に掲げられている「明々庵」額の書は不昧公の自筆。主人が呼びに来るまで客が腰を掛けて待つ腰掛待合のすぐ脇には「飾雪隠」が備わる。「躙り口(にじりぐち)」から茶室に文字通り“にじり入ると質素な茶室の本席。2畳台目で4畳半の席が組み合わされており水屋と台所もあるオーダーメード茶室である。建物からは不昧公の類い稀な美意識が伝わってくるようである。
不昧公のお陰で茶の湯文化という遺産を手にした松江の町をそぞろ歩いた。
老舗の菓子屋の暖簾が翻っている。瀟酒なガラスケースには「不昧公お好み」と謳われる銘菓の数々。若草、山川、軒の玉水、小倉松草、腰高朧まんじゅう…。目移りするほど華やかな茶菓子たち。そのなかから日本三大銘菓のひとつ「山川」をいただいた。不昧公が「散るは浮き 散らぬは沈む もみじ葉の 影は高雄の山川の水」という歌より命名された菓子である。
山と川をという自然の核を名前に持つお菓子。神在月に集まった神々の宴会にも供されて、この国の行方を語るにふさわしい菓子かもしれない、などとぼんやり考えながら落雁が淡雪のように融けてゆくのを感じた。
稲葉 秀一 |
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