『放光寺(ほうこうじ)は元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立』された。
武田家の祈願所となっていた放光寺は、前回ご紹介した恵林寺と前後して、天正10年(1582)に織田信長勢の兵火を受け伽藍を焼失。その後再建された。
本堂は寺伝によると元禄年間(1688〜1704)の建立。桁行9間、粱間6間、重入母屋造、銅板葺(もと茅葺)で、禅宗の方丈型である。
『平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西両側に入側を設けている。南面の中央は、板敷、その奥が仏間である。仏間は来迎柱前面に須弥壇が設けられ、本尊を祀る厨子が安置されている。仏間の東に並ぶ2室のうち北室は床の間と付け書院を備えた11畳で、南に15畳間がつづいている。さらに西に並ぶ2室のうち、北室は床の間と付け書院を備えた11畳で、南15畳間がつづく。客室の欄間に安田氏家紋「追洲流」紋様の本組を装飾にしている。建具は腰障子、襖、舞良戸であるが、よく当初のものを用いている。建物の周囲に切目縁を囲し、正面に擬宝珠高欄をつける。屋根は入母屋造で妻飾は狐格子、破風にかぶら懸魚をつける。なお須弥壇囲り付近の改造部分は資料により当初に復元が可能である。』
江戸中期の特徴を色濃く残す方丈形式の寺院本堂建築の遺構として、極めて貴重な建造物であり、平成8年(1996)に甲州市指定文化財に指定された。
慶長年間(1596〜1615)の建立といわれる庫裏の規模は、『桁行九間、粱間六間で南側に出入口がある。屋根は入母屋造、銅板葺(もと茅葺)で妻入りである。妻飾は虹粱大瓶束式で実肘木つき平三斗で受けた大虹粱が支えている。破風はかぶら懸魚をつける。出入口の内部は土間で、土間で奥は板敷の広間である。土間境には太い大黒柱が立ち、この部分は粱を組んで小屋組をみせる化粧屋根裏天井としている。』平面は当初の古形式を残し、寺伝の桃山から江戸初期の遺構を今に伝えているという。
京都や奥州平泉の平安文化を甲斐に招来することをひそかに思い描いていたという義定は、八尺の阿弥陀三尊をはじめ大日如来、愛染明王、不動明王などの平安時代の仏像を勧請した。また、源頼朝に倣って奈良の南京佛師成朝を甲州に招いた。甲州仏師原(現武士原)の工房では、放光寺金剛力士像、毘沙門天像をはじめ、甲州の仏像が数多く造られたということが近年の調査で分かってきている。
放光寺のほど近くにある西藤木水車は、江戸末期に個人創設したものを地域の住人が共同水車として使用したものだという。昭和43年3月より放光寺が管理している。『三間四面、東側は寄棟造、西側は切妻造木造建築である。大輪の下部を水路(小屋敷セギ)に直結させた押し車屋で、中には舂臼四台、臼一台がある。』山梨県の貴重な民俗資料として残されている。
「花の寺」と称される放光寺。向嶽寺の松、恵林寺の桜、放光寺の梅と称されていたという。梅、椿、桜、花桃、山吹、ぼたん、花菖蒲、あじさい……。放光寺の花々は早春より次々と咲き継がれ、いまが盛りの花の季節を迎えている。
※ 『』内は方光寺サイトより
稲葉 秀一 |