土地を穿ち湖をこしらえ、その土塊で山を築く。なんとも壮大な庭園である。
頤和園(いわえん)は北京市内から北西15kmにある清朝皇帝の離宮。
1750年に第6代皇帝・乾隆帝が王室庭園として造営したが、アヘン戦争で破壊され、荒れ果てていた。1886年、摂政として絶大な権力を振るっていた西太后が再建。1895年完工。総面積290ヘクタール。西太后は当時の海軍費3000万両を流用した。その桁外れの散財ゆえ1894年から1895年にかけての日清戦争に敗北したといわれてる。
頤和園の成り立ちは、総面積の4分の3を占める人造湖である昆明湖と、昆明湖を掘り出した土を盛り上げて作った万寿山と宮殿区からなる。ここでは宮殿区の建築を歩いた順にひとつひとつご紹介しよう。
光緒帝直筆の「頤和園」の扁縁が掲げられた東宮門から入ると、仁寿殿を中心とした宮殿区である。正面の東宮門から仁寿門、仁寿殿と一直線に並ぶ皇室建築。
仁寿殿は西太后や光緒帝が政務を執ったり外国使節と謁見した場所であり、正面には紫檀木に九龍が彫りこまれた豪華な玉座が鎮座している。
玉瀾堂は西太后が光緒帝を10年間にわたり軟禁された場所。1898年の「戌の変法」失敗後、夏はここ玉瀾堂に、冬は中南海に軟禁された。いまでもレンガで塞がれた四方に通じる門を観ることができる。玉瀾堂の後ろにある宜雲館には光緒帝の皇后が住んでいた。
徳和殿は芝居好きな西太后のための劇場で、正面が3階で背面が2階という大戯楼式。仙人や天女演じる役者が空中を移動する場面なども演じられた。舞台の向かいにある西太后専用の場所、頤楽殿から1日に4回も観劇したとか。現在は西太后のゆかりの品々がならぶ。
楽寿殿は西太后の住まいにあたり、四合院建築で堂の西側に寝室、東側が食堂となっている。西太后が食事をする中央の部屋には、料理が3テーブルに並べられ、食べるもの、目で見るだけの観賞用と各1テーブルあったという。主菜60皿、菓子・くだもの30皿、山海の珍味120皿。食費は、1日白銀60両で、白米5トンを買うことができたというから驚きだ。
楽寿殿と排雲殿を結ぶ長さ750mに及ぶ回廊の柱の梁には、8,000にも及ぶ花鳥風月や歴史、「西遊記」「三国志演義」「白蛇伝」などの古典の画が描かれており、ひとつとして同じものはないという。
回廊を渡ると排雲門と二宮門があり、その間の池には漢白玉の「金水橋」掛かる。より排雲殿を中心とする建築群。排雲殿の東西には、「配殿」と「耳殿」が配され、すべての建築は回廊で行き来ができる。頤和園のなかでも、もっとも雄大な建築群。拝雲殿の名称は「神仙排出雲、但見金銀台」の句に由来するという。西太后が誕生日の祝賀を受けた場所であり、殿内に残されている品々は西太后70歳の誕生日を記念した家臣からの贈り物である。
清晏舫は、別名「石舫」、全長36メートル、すべて白亜の石で築き上げられている。建物の上部は中国式の楼閣だったのを英仏連合軍焼き討ち後、現在のような洋式の楼閣船に建て直した。頤和園のなかで唯一の洋式建築である。
さいごに頤和園のシンボル、万寿山上の仏香閣をご紹介しよう。
1枚目と4枚目の写真に見られるように、3層の仏閣である。
もともとは9層の塔が建てられるはずであったのを、8層まで完成したところで都城の西北方に塔を建てるのは不吉とされ、昆明湖の雄大な水面に対し、細長い塔は如何にも貧弱であるといわれ、完成直前に全て取り壊された。
その後、杭州の銭塘江に臨む「六和塔」に従い、8閣3層、高さ41m、基壇の高さ20mの仏香閣が造られた。内部には西太后が信仰したという「南無大悲観世菩薩」が安置されている。
長い階段を登ってきたのだもの、仏香閣より眺める昆明湖の眺めは絶景だ。
湖は南に行くほど幅が狭くなる。仏香閣から視線を遠くに運ぶにつれて小さく狭く造ることにより、実際よりも奥行きを深く、広くみせようと工夫されているのだとか。南湖島をはじめ3つの島が浮かび、島々を結ぶ盧溝橋型の曲線を描く十七孔橋や玉帯橋も風景に優美さを与えている。
この麗しくも壮大な、時の権力者の財を尽くして造られた建造物群は、1998年ユネスコ世界遺産に登録された。
稲葉 秀一
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