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1853年ペリーの黒船来航。2百余年間にわたるわが国の鎖国はついに終焉を迎えた。その5年後に結ばれた日仏通商条約で、禁教令下のわが国に外国人のための礼拝堂建立が認められた。
さっそくフランス人のプチジャン神父によって1865年(慶応元年)に「日本26聖殉教者天主堂」が建立された。総工費3万フラン以上。施工はグラバー邸を手掛けた天草の小山秀之進。地元民には「フランス寺」などと呼ばれたが後に地名を取り入れて「大浦天主堂」の名で親しまれた。
大浦天主堂は建設当時から何度も改修を重ねている。
創建時は黒地に白い格子のナマコ壁、バラ窓の上を飾る紋章、大浦の空に大小3つの尖塔に金の十字架がきらめく世界に類を見ないうつくしい天主堂であったという。
落成の1ヶ月後奇跡が訪れる。プチジャン神父の前に、マリア像のおん姿を求める信者が現れ、250年間隠れキリシタンとして信仰を隠しつづけてきた長崎県や福岡県各地の信者が発見されたのである。
1873年に禁教令が廃止されると、日本人信者が急速に増えていった。手狭になった天主堂は1979年に大増改築をする。当時浦上随一の大工と言われた溝口市蔵、天草の大工棟梁丸山佐吉、伊王島出身の大工棟梁大渡伊勢吉らによる施工。間口を広げ、奥行きを2倍に増築。煉瓦造の外壁表面を漆喰で覆い軽さを演出した。軽やかなアーチを描く天井、尖頭窓などが印象的なゴシック建築様式に統一された。
その類い稀なる優美な建築物は1933年(昭和8年)、現存する最古のゴシック建築様式の木造教会として国宝に指定されている。
1945年8月9日午前11時2分、大浦天主堂は原爆投下の爆風を正面から浴びた。当時の神父の証言によると「扉が吹き飛び」「屋根がぐしゃぐしゃに崩れた」という。 創建時にフランスの修道院から寄贈された正面祭壇中央のキリスト聖画像や入り口上部や祭壇奥のフランス製ステンドグラスが粉々に破壊された。
創建当時フランスから伝わったいわゆる「信徒発見のマリア像」と、信徒発見記念にフランスより贈られたという白亜の「日本之聖母」のふたつのマリア像の瞳には、人間の愚行がどのように映っていただろうか。
戦後1947年より国庫補助により5年の歳月を費やして修復工事を完成。1953年文化財保護委員会により再指定された。
キリストのごとく生まれ変わった大浦天主堂は、今日も長崎の町を静かに見守っている。
稲葉 秀一 |
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