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14世紀中頃より、北山、中山、南山と三つに分かれて統治されていた沖縄本島は、1429年に第一尚氏王朝による統一が完成し、琉球王国が誕生した。琉球王国は、現在首里城と呼ばれている首里グスクに拠点を構え、以降1879年まで約450年間にわたり、王制の国として栄えた。
琉球王国の拠点となった首里城は、1879年の王国崩壊までにたび重なる焼失をくり返している。1453 年、王位継承をめぐる争い「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」により全焼。1660年、1709年の失火による全焼……。沖縄県になってからは、昭和初期に旧国宝に指定され、首里城正殿の修理されたが、これも1945年太平洋戦争の沖縄戦により壊滅してしまった。
1950年、旧首里城跡に琉球大学が設立され1957年には園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)を復元、1958年に守礼門(しゅれいもん)を復元している。
1972年 、沖縄県は日本本土に返還され、1986年沖縄復帰記念事業として首里城復元が決定された。1989年には首里城正殿復元工事が着手。それに次いで南殿(なんでん)・番所(ばんどころ)、北殿(ほくでん)、奉神門(ほうしんもん)等の復元工事も着手され、現在の首里城が造られた。
2000年には沖縄サミットが開催されて首里城跡は世界遺産として登録された。
沖縄返還後、真っ先に復元された園比屋武御嶽石門は、1519年に尚真(しょうしん)によって創建された。築造者は竹富島出身の西塘(にしとう)。この石造建造物は木造建築様式にのっとって、垂木(たるき)・唐破風(からはふ)・懸魚(げぎょ)・棟飾りの細部を石造に盛り込んでる。古来より、明や東南アジア各国と交易を行った沖縄文化の独自性をよくあらわしている。
琉球王朝時代には、周辺一帯の森を“御嶽”(うたき)とよぶ聖地となっており、祭礼時のほか国家の安泰、国王が各地を巡回する際の安全祈願が行われていた。
守礼門は、1527年〜1555年の4代目・尚清王(しょうせいおう)代に初めて建立。扁額に「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられていることから守礼門と呼ばれるようになったという。
守礼とは「琉球は礼節を重んずる国である」「琉球は清と間に結ばれた、臣下・親子のような国際関係の秩序を守る」という意味を持っているのだとか。
門の構造は唐様式と天竺様式を取り入れ、こちらも琉球独自の様式となっている。
歓会門の“かんかい”とは歓迎するという意味で、首里城へ招き入れる中国皇帝の使者・冊封使(さっぽうし)などを歓迎するための門。当時は、歓会門、瑞泉門(ずいせんもん)、漏刻門(ろうこくもん)の3つの門を通り、広福門(こうふくもん)から下之御庭(しちゃぬうなー)へ向かうというのが首里城への正式な道。国王や冊封使などが使用する男性専用の門であった。
石造のアーチ門の上に木造の櫓(やぐら)を載せた日本では珍しい形式で、門の左右に魔除けのシーサーが配置されている。琉球名は「あまへ御門(うじょう)」。「あまへ」は「よろこび」という意味。
正殿の正式名称は「百浦添(ももうらそえ)御殿(うどぅん)」。「たくさんの浦々を支配する御殿」という意味だとか。中国の宮殿建築の様式を取り入れながらも、正面にある装飾板の「唐(から)破風(はふ)」という部分は日本建築の様式という自由さである。正面階段のハの字状に広がった形式や、龍そのものを柱にしてしまう龍柱は琉球独自のもの。様々な要素が合わさって造られた沖縄県内最大の3階建て木造建築である。
1階は「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執り行う場。中央の華麗な玉座は「御差床(うさすか)」、左右の国王の子や孫が着座した「平御差床(ひらうさすか)」、「大庫理(うふぐーい)」と呼ばれる2階に通じる「おちょくい」という国王専用の階段を上がると、王妃や身分の高い女官が使用した場。
2階部分の裏には「おせんみこちゃ」という部屋があり、国王みずから女官とともに毎朝東方に向かって拝んでいた場所だとか。
建造物各部に名付けられたチャーミングな名称の響きから、今はなき琉球王朝の華やかなにぎわいが目に浮かぶようであった。
稲葉 秀一
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