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千年杉が鬱蒼と茂る霊域に佇む瑞光山清水寺は、用明天皇2年(587年)尊隆上人により開基された天台宗の古刹である。
尊隆上人が瑞光山中より光る源を辿ったところ、ひとりの老人に観音像を託され、そこに草堂を結び、観音像を安置したのが清水寺のはじまり。
上人がこの地で1週間密行を施したところ、まったく水の湧かない土地であったにもかかわらず清水がこんこんと湧いてきて、大地を潤したという。山号を「瑞光が射した山」に因んで「瑞光山」、清らかな水に恵まれたお寺ということで「清水寺」という。
庶民からは厄払いの寺として親しまれている。
境内の山陰唯一の三重の塔は、三層なのに御重 (ごじゅう) の塔と称されている。それはなぜか?縁起書を繙くと、建築当初に存在した宝塔が、永禄・天正の尼子毛利の合戦により焼失。江戸時代には宝塔再建の声が高まり全国より大工が選ばれた。宮大工として名高く、松江藩のお城の大工も務めた棟梁・富谷覚太が、宝塔の建築に抜擢。その際、京の清水寺や四国の善通寺などの名塔を検分し“登れる塔”という独自の設計を施した。使用する材木にもこだわり、良質のケヤキを“汐浸け”といわれる、海に浸けて3年寝かしたり、“汐抜き”に3年、乾燥に3年かけるなどの手の込みようであった。
その仕事は富谷覚太、その息子由助、その息子唯市へと受け継がれ、安政 6 年 4 月 3 日 (1859 年)実に33カ年の歳月と莫大な費用を費やし完成をみた。
総欅造りの三重の塔は、基礎から棟まで 21.21 メートル。相輪の先端までは 33.33 メートル。三層までの狭い階段 (梯子) を登り、匂欄のある回廊に出ると素晴らしい景色を眺めることができる。
宝塔建設への様々な人達の情熱を、ご本尊の十一面観音像(重要文化財)が静かな眼で眺めておられたことであろう。
稲葉 秀一
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