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明治維新後、1868年に新政府が発令した神仏分離令を受けて、1871年ごろまでの数年間、わが国は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れた。廃仏毀釈とは仏像を神体とするのを改め、社前の仏像、仏具の取り除きを命じた神仏判然令から、仏教寺院、仏像、経巻の破壊にまで至った一連の運動である。奈良の興福寺五重塔は仏具を取り外され、わずか25円で売りに出されたあげく、あやうく薪にされるところだったという。
隠岐国分寺も例外ではなく、時の権力者松江藩と結びついてきた寺や僧侶への民衆の不満が爆発し、極端なまでの廃仏毀釈運動の矛先となった。
そのむかし、奈良時代には七堂伽藍の隆盛をきわめ、鎌倉時代には後醍醐天皇隠岐行在所として誉れ高い隠岐国分寺。しかし廃仏毀釈の名のもとに伽藍、仏具、仏像、寺宝などがことごとく破壊され、寺院財産も没収されたのである。そのとき壊された四天王像は寺の裏に無惨にも捨てられていたという。哲学者の梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈がなければ現在の国宝といわれるものはゆうに3倍はあっただろう」と考察しているという。
陰鬱な雲が立ちこめ、いまにも雨が降り出しそうな初冬の隠岐国分寺は、人間の愚行の記憶をたっぷりとはらんでいるかのように、どこか哀しげで儚く感じられた
稲葉 秀一
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