前回仰ぎ見た松江城にやって来た。別名「千鳥城」。天守閣正面中央に入母屋破風と呼ばれる桃山時代の建築様式を取り入れた三角屋根があり、まるで千鳥が羽をひろげた様子にソックリという訳である。
1600年(慶長5年)の関ケ原の合戦の功績により出雲・隠岐24万石の領主となった堀尾晴吉が1611年(慶長16年)宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城。晴吉は完成を見ることなく亡くなり、忠氏、忠晴の3代が城主として続いた。その後、京極忠高の治政を経て、1638年(寛永17年)より初代藩主松平直政が城主となり、以来松平氏10代234年にわたり出雲松江18万6千石の藩主となった。松平7代藩主にあたる治郷・不昧公の代には城下の文化の重要な拠点となったことは前回に書いた。
特筆すべきは最上階の四方を見渡せる望楼式天守閣。日本全国に現存する城のなかでも平面規模が2番目、約30mの高さは3番目、古さでいうと6番目とか。天守閣の外観は5層、内部は6階。2重櫓の上に3重櫓をのせた構造。松江市街を一望できる。
殿様気分とはこのことであろうか…。
「皆の物ぉー!戦じゃー!」
そう。殿様の仕事といえばまず治世。次に戦である。
その点、この松江城は実戦本意の造りとなっており、姫路城のような優美さはないが実戦を想定した風格のある機能美を誇っている。
細部の造りを見てみよう。
壁は下見板張り(したみいたばり)といわれる黒く厚い雨覆板で覆われ、柱は堅牢な寄木柱、階段は燃えにくく腐りにくい桐で拵えており、随所に石落としという石垣に近づく敵に石を落とす仕掛けも備わる。地階は籠城用の貯蔵庫で井戸も完備。北方の池より常に飲料水が得られた。
石垣はごぼう積みと呼ばれる細長い石を積み上げていく工法で、外側から見ると一見小さな石のように見えるが、実は大きく強固な石が積み上げられているのである。
城の周囲は宍道湖から引き入れた幅20〜30mの内濠で囲まれたこの城も、廃藩置県後の明治になって、城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で危うく売却されるところだったというのだから驚いた。
師走の空に低く垂れ込めた雲を割って、鋭い刀のような陽の光が宍道湖に差している。湖の怪魚を差し貫いた神の刀は、それを天守閣の屋根に放り投げ2メートルものシャチホコとなったのではあるまいか。出雲の国の神様の豪快な漁というものである。
稲葉 秀一 |