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『建物は、江戸時代後期、明治、大正と3時代の建築様式をもつ集合建築群で、3階を除くすべての屋根がひと繋がりになっており、1棟の床面積は日本でも最大規模の木造建築である』と聞いていた。建築家としてはいちどは観たいと願っていたがなかなか機会に恵まれなかった。この度ようやく夢が叶ったかたち。
日光田母沢御用邸記念公園の説明によると『日光出身で明治時代の銀行家・小林年保の別邸に、当時、赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部(現在の3階建て部分)を移築し、その他の建物は新築される形で、明治32年(1899)に大正天皇(当時の皇太子)のご静養地として造営された』『その後、小規模な増改築を経て、大正天皇のご即位後、大正7年(1918)から大規模な増改築が行われ、大正10年(1921)に現在の姿となった』のだという。
1階から3階までは書院様式から数寄屋風へと変化がみられる。3階部分は数寄屋風書院、明治期に建てられ在来家は栂普請の京風住宅となっており、大正期に増築された部分は、京都御所の御常御殿の意匠を取り入れた宮廷風となっている。
様々な建築の様式に、大正期に花開いた西洋の文化、絨毯やシャンデリアといった生活様式が自然なかたちで取り入れられている。
日光観光協会によると『建物の広さは4500平方メートル、部屋数は106あり、大正天皇は大正14年夏まで、毎年のようにお過ごしになられた』とある。
部屋数106!その数字に唖然とする。すべてのお部屋は使われたのだろうか?なぜこの部屋数になったのか。従者の部屋も入れてのことであろうが、一般市民には想像を絶する部屋数である。また、『第2次世界大戦の折には、天皇陛下が日光疎開により昭和19年7月から約1年にわたってご滞留なされた』とある。昭和19年といえば年終戦前年のこと。どんな想いでこの田母沢御用邸で過ごされたのだろうか。
戦後、博物館や宿泊施設、研修施設として使用された後、栃木県により3年の歳月をかけ、修復・整備され、平成12年(2000)に記念公園としてよみがえった。復元工事を実現したのは匠のちからである。 古来からの水銀を使った金鍍金(きんめっき)の技を今に伝える錺金物職人、旧来の柿葺きを銅版柿葺きにされた屋根を葺く職人、旧御用邸内外装約1300坪灰汁洗いを行い木を蘇らせた灰汁洗いの技術、畳職人などの国宝級の匠の仕事になる。そして、日々この建物を守っている人々・・・。毎日開け閉めされる雨戸の数を考えてもその苦労は計り知れないものがある。
類いまれなハーモニーを奏でる建築は平成15年(2003)「国の重要文化財」に指定され、平成18年(2006)「日本の歴史公園100選」に選定された。
庭園には樹齢400年のしだれ桜。例年では4月20日ころ花を咲かせるというが、今年はすこし早まったか。自然が創りたもうた桜の花と、匠の仕事が咲かせた田母沢御用邸という建築の花の饗宴にしばし酔いたい。
稲葉 秀一 |
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