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長城の起源は春秋時代の紀元前657年に遡る。
斉(せい)が領土防衛のため国境に築いたのが始まり。
春秋時代というと我国は未だ縄文時代のまっただ中。中国史では紀元前453年ごろに戦国時代を迎える頃、ようやく日本に弥生文化の曙が訪れたのだから、あらためて中国の歴史の雄大さに思いを馳せる。
戦国時代の諸国も春秋時代に倣い、匈奴の侵入を防ぐため長城を増築した。匈奴とは、ユーラシア大陸に一大勢力を築いた遊牧民たちのことである。
紀元前246年秦の始皇帝即位。
秦、趙、燕の三国がそれぞれに築いた長城をひとつに繋げるという大工事に、50万人もの労働者を集め、10年の歳月をかけて遼寧省遼陽から甘粛省臨にわたる大城壁を完成させた。近年この長城の東部の遺址(いし)が東北地区で発見されたという。しかし秦の始皇帝の死後わずか4年で、圧政に苦しむ農民たちが蜂起し、秦国は滅んでしまう。
漢代には、前漢の武帝が匈奴を討伐し、その勢力を西へ西へと押し進め、現在の新彊ウイグル自治区のロプノールにまで延長されていたという。
五胡十六国、南北朝時代、隋、北方民族の南進が激化し、従来の長城を放棄した。南側に2本の長城を築くなどしたが、唐代には融和政策が取られ、宋、元の時代には北方民族により中国北部が統治されていたので、長城は壁の意味を成すことはなかった。
元に取って代わった明の時代には北辺警備強化にともない、長城の大改修を行い、9つの基地を建設し兵隊を配備した。従来の土と煉瓦の城壁を、煉瓦や石で固め、城壁の上の通路にも煉瓦を敷いた。18回もの大改修に二百年もの歳月をかけ、東は山海関を起点に、河北,天津,北京,山西,内モンゴル,陝西,寧夏を経て、西は甘粛省の嘉峪関にいたるまで、全長6700キロにもおよぶ長城がついに完成した。
華里で計算すると一万三千里になることから、万里の長城の名が生まれた。
やがて明の疲弊につれて防衛力が弱体化。北方より侵入した女真族が明を滅ぼし清朝を樹立した。北方民族の国・清では、長城を必要とせず、長城は放置された。
現在観光の対象となっている八達嶺付近の長城は、明代に改修されたもので土台が約500kgの花崗岩で築かれている。入場すると男坂、女坂と左右のルートに分かれている。高さ8.5メートル、厚さ底部6.5メートル、頂部5.7メートル。城壁の上は連絡通路・甬道(ようどう)は、人なら10人、馬なら5頭並んで通行できるという。頂部上には高さ1.7メートルの連続した凸字状の垣である女牆(じょしょう)が築かれ、北側の壁には銃眼が開く。敵監視台、狼煙台などが均等に分布、芸術性すらも感じられる。
尾根伝いに建造された長城は、標高1000メートル。頂上付近はかなりの急勾配である。登るほどに眺めがよくなり、長城のスケールを実感できる。
1987年、「万里の長城」は世界遺産登録された。農耕民族地帯と遊牧民族地帯をわけてきたボーダーラインとしての城壁の煉瓦を踏みしめ歩いた。時の流れとともに増築されたり放置されたりしながら、途方もなく長い中国の歴史を見つめてきた長城。その上空を野鳥の群が悠々と超えて、彼方へと消えていった。
稲葉 秀一
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