時代を読む力
祖先代々、屋号「三国屋」で清酒問屋を営んできた斎藤喜十郎家は、幕末維新期に北前船経営に乗り出す。明治10年代には時代の潮流を見逃すことなく海運業・銀行業・化学工業を中心に事業を展開。土地の集積や有価証券投資で莫大な富を築いていった。さらに有力地主や商家と姻戚となり、系列企業には親族を配し経済基盤を固めた。やがて斎藤喜十郎家は、新潟三大財閥のひとつと数えられる名家となった。
旧齋藤家別邸は、大正7年(1918)、新潟砂丘の東南縁辺部にあった旧料亭の敷地を入手した斎藤家四代目、齋藤喜十郎(1864~1941)が別荘として建てた近代和風建築である。
庭家一如
開放的な数寄屋造建築を基調とした旧斎藤家別邸は、近代和風建築の秀作といわれ、優れた工匠の技術が駆使された各座敷の床廻りや天井などに多様な銘木を配し、欄間や建具にも贅を尽くした造りとなっている。
建物からは砂丘地形を利用した独特な意匠・構成を凝らした庭園全景が展望でき、庭園と建物が融合した「庭屋一如(ていおくいちにょ)」の精神が反映されており、四季折々の自然と共に暮らす快適な空間が構成されている。
風土色豊かな庭園
作庭は東京根岸の庭師で、東京飛鳥山の渋沢庭園を手がけた第二代松本幾次郎と松本亀吉。
面積約4,500平方メートルの敷地内に、格式のある玄関庭、趣のある中庭、主屋北側の自然の砂丘地形を活かし、築山(つきやま)に見立てた広大な主庭が広がる。傾斜面の松林には楓樹(ふうじゅ)を配し、自然風の疎林を形成。総高約3.8mの大滝周辺には、阿賀野川の上流域で採石した石材を多用するなど、新潟の地域性が反映されている。
建物の保存へ
戦後には、建物の所有が齋藤家から建設会社の加賀田家に移り、平成17年(2005)までの約半世紀間、加賀田家三代にわたり加賀田邸として使用された。その後、加賀田家の所有を離れた建物は、建物の保存を願う市民有志の働きかけにより、平成21年(2009)に新潟市公有化の運びとなった。
大正期における港町・商都新潟の風土色豊かな庭園の作例として、その秀悦な風致を今に伝えることから、近代日本庭園史における共有財産としての価値は極めて高いとの判断により、平成24年(2012)に文化観光交流施設「新潟市旧齋藤家別邸」としての公開が始まり、一般市民向けた活用もされている。