浄土真宗の触頭

高岡市

家持の愛した越中の地

奈良時代に越中国府が置かれた場所と推定される「勝興寺」境内に、万葉集の編纂者として名高い大伴家持の歌碑が3ヶ所建てられている。大伴家持は越中時代の5年間で、223首もの歌を詠んでいる。越中の四季折々の風物に触発された歌の数々は、当時政権の中央であった奈良での政治的緊張感から解放され歌に集中できる喜びに溢れている。

勝興寺は、1471年(文明3年)越中後に浄土真宗の僧である蓮如上人が開いた「土山御坊」にはじまり、1494年(明応3年)に高木場へ移転、1517年(永正14年)には、佐渡にあった順徳天皇御願寺を継承し「勝興寺」と称した浄土真宗本願寺派の寺院となった。
戦国時代には甲斐の武田氏や越前の朝倉氏等の戦国大名との関係を深め、1519年(永正16年)、堂舎の焼失を機に安養寺に移転。1581年(天正9年)に織田信長方(佐々成政の配下)の地方武士(石黒成綱)の夜襲で堂舎が全焼し、1584年(天正12年)に現在の高岡市伏木古国府に移り再興された。

近世に入ると、勝興寺は藩主前田家、本願寺及び公家との関係を深め、越中における浄土真宗の触頭(ふれがしら)として近代にいたるまで権勢を振った。

       

本堂

本堂

本願寺阿弥陀堂に倣って

近世以降は加賀藩前田家の庇護のもと、京の本願寺との関係を深めていった勝興寺。1795年(寛政7年)に西本願寺の阿弥陀堂を模して建立された本堂は、本願寺の宮大工によって図面が引かれ、近世の大型真宗本堂として屈指の規模を持ち、江戸後期以降の我が国を代表する大型寺院本堂のひとつとなった。また、大広間及び式台は、浄土真宗の対面所の初期形式から入側を取込んで発展した、対面所の整備過程を体現する建物であり、その歴史的価値は極めて高いといえる。

本堂詳細

本堂詳細   

大広間および式台

大広間および式台

船で運ばれた唐門

本堂と一直線で結ばれるかたちで建つ唐門は、1769年(明和6年)京都で造られ、1893年(明治26年)に勝興寺に移築された。移築の際には京都より北前船(きたまえぶね)によって運ばれてきたと伝えられる。北前船とは、江戸から明治にかけて日本海側に籍を持つ海運船の上方の呼び名で、富山側からは弁財船と呼ばれたという。移築の際には京都より檜皮葺屋根職人が招かれ、北陸地方ではめずらしい檜皮で屋根を葺いたという。

唐門

唐門

平成の大修理

勝興寺建立から200年以上の時を経て、建造物の劣化がすすんだことから、1998年(平成10年)より23年もの歳月をかけて大規模な保存・修理が行われた。「平成の大修理」とよばれたこの改修工事は、建物の希少価値をあらためて見出だす機会となった。修理の対象となったのは、本堂、大広間、式台、書院、奥書院、御内仏などの計12棟で、改修工事過程において本堂が建立された江戸後期の姿を基本とした修復や整備が進められた。
2022年12月には、本堂と大広間及び式台が国宝に指定され、江戸後期の姿を今に伝えている。