江戸文化の凝縮

日光市

  

日光の歴史

奥日光に広がる戦場ヶ原は、太古の昔、男体山と赤城山が中禅寺湖の所有権をめぐり激しく対立し、それぞれ大蛇と大ムカデの姿となって戦ったという。
735年(天平7年)現在の栃木県真岡市の高岡の豪に藤糸丸と名付けられた男児が生まれた。藤糸丸7歳の時、夢に明星天子という神が現れ「あなたはこれから仏の道を学び、大きくなったら日光山を開きなさい。」と告げられたという。童は後に数々の修行を積み、勝道と号する僧侶となった。766年(天平神護)二荒山を開く根拠地として四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立し日光山を開いた。782年(延暦元年)3度目の試みで男体山(なんたいさん)(二荒山)の山頂に達し、784年(延暦3年)中禅寺湖畔に神宮寺(現在の中禅寺)を開き、816年(弘仁7年)三社権現の社を建立するなど、82歳で亡くなるまで日光に仏教の聖地の基礎を築いた。

門正面

門正面    

徳川の威光

1617年2代将軍秀忠公が家康公を祀る東照社として建てた日光東照宮。徳川家康公21回忌にあたる1636年(寛永13年)に三代目家光により「寛永の大造替」が進められ、江戸はもとより京都や大阪など各地から集められた腕利きの職人によって、豪華絢爛な姿となった。そのほぼ中央に位置する陽明門は高さ11.1メートルの2層造り、正面幅7メートル、奥行4.4メートル。江戸の建築様式、彫刻、工芸、絵画などを凝縮した門といわれている。

「東照大権現」の額

「東照大権現」の額

門屋根

門屋根        

日暮の門

陽明門には唐獅子や仙人の姿、故事にまつわるテーマなど、実に500以上の彫刻が施され重層的な造形美を楽しむことができる。一日中観ていても飽きないことから「日暮の門」と呼ばれる。門の頂点に鎮座する「黄金の鬼瓦」が門下をジロリと睨みつけ、邪悪な者が侵入しないように見張っている。その門中心部には白木彫りの「目貫きの龍と龍馬」が彫刻されている。龍の目が未完成のまま掘られていないのは、「画竜点睛」と言う故事に基づいたもので、龍が完成することにより天に飛んで行ってしまわないようにとのこと。
「唐子遊び」には童たちが遊ぶ姿が彫られて、故事「孟母三遷」などの話によるものも見られる。
他にも故事に倣った彫刻「司馬温公の瓶割り」や儒教の聖賢の姿など、まさに日暮れまで門下に佇みかねない彫刻のボリュームである。
門をくぐる際に見られる天井画の狩野探幽による雲龍図も見逃せない。

 

世界遺産へ

2017年(平成29)の大改修後、姿を現した陽明門は、白い12本の柱と金の彩色を基調とし、獄彩色に彩られた彫刻が参拝者を魅了している。
12本の柱にはグリ紋と言う中国の文様が施されているが、一本だけわざと逆さまになっている。「満つれば欠ける」の諺より、建築は完成した時から荒廃していくという理を飛び越えようとする徳川家の矜持が感じられる。日光東照宮の陽明門は日本を代表する美しい門として1999年に世界遺産として登録された。

グリ紋の柱

グリ紋の柱